【ウィキで調べる暴力団(笑) 東京タワーが建てられた本当の理由】

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こんにちは、今回は読者の方からのご質問にお答えする記事になります。

今回の記事はほとんど加筆することなく、Wikipediaだけで纏めています。

私は、Wikipediaに書かれている事が事実であるという事と、私が先生に教わった補足のみ、付け加えさせていただきます。

まず、小泉氏。

はっきりとヤクザの家系と書かれています。


(Wikipediaより)

■稲川会

稲川会(いながわかい)は、東京都港区六本木に総本部を置く日本の指定暴力団。構成員は約4700人。準構成員を含めると約9100人。

鶴岡政次郎網島一家五代目総長の代貸であった稲川角二が1949年に静岡県熱海市の山崎屋一家を継承するとともに「稲川組」を結成。それから各地に勢力を拡大しつつ、「鶴政会」、1963年に「錦政会」、1965年に「稲川一家」と順次改称。そして1972年をもって「稲川会」へ名を変えた。


* 小泉純一郎元首相の選挙対策本部長である竹内清(前神奈川県議会議長)は稲川会横須賀一家の系列組員であり、石井隆匡と非常に親しく、上下関係の厳しいヤクザの世界にあって葬儀で最初に焼香するなど、肩書きこそ堅気という事になってはいたが非常に密接な関係であった。また息子の小泉進次郎と共に写っている写真が掲載されるなど、小泉父子の選挙区であり、横須賀一家の本拠地でもある神奈川県横須賀市では、両者の結びつきはきわめて強い。


■小泉組(こいずみぐみ)は現在の神奈川県横須賀市で活動していた土木請負業であった。小泉又次郎は、口入れ屋家業から土木請負業の“小泉組”をつくった。港湾都市から勃興した近代的なヤクザ組織の代表格としても知られている。

概要

武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)のとび職、小泉由兵衛が明治初期、横須賀に移住し、海軍の軍艦に石炭、砲弾、食糧、労務者などを送り込む請負師となった。

作家の宮崎学によると、明治17年(1884年)に海軍鎮守府が置かれ、軍港として急速に発展した横須賀では「軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていった」という。

当時の横須賀では目兼の大親分と小泉組が、沖仲仕の手配師として縄張りを競い合い、博徒たちのにぎやかな出入りがくり返されていたという。縄張り争いを制したのは、「近世以来の古い型の博徒」である目兼組を抑えた新興の小泉組であり、跡目を継いだ息子の小泉又次郎(小泉純一郎の祖父)がこの帰趨を決定的にした。宮崎は小泉組について、「吉田磯吉と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザのひとつにほかならない」と述べている。

『人事興信録. 第9版』(昭和6年)によれば、小泉岩吉は神奈川県下の多額納税者に列し直接国税二千七百十八圓を納めている。

仕事の種別

* 建設業
* 沖仲仕
* 手配師
* 人材派遣

手がけた施設

* 横須賀海軍工廠

特に、第6船渠の建設に従事したことで知られる。同船渠は軍縮条約後の戦艦建造に備えて1935年建設が決定し、7月その掘削に着手した。この構築のため蠣ヶ浦一帯の丘を掘削し、土砂150万立方メートルを運び出して松ヶ原海岸と海兵団沖の埋め立てに使用された。1940年5月には艦艇の建造が一応は可能な程度に進捗し、大和型戦艦3番艦の信濃が起工された。太平洋戦争の戦局進展に伴い、空母への改造が決定、ほぼ完成までの工事を行った。閘門の取り付けは1942年である。戦後は他の施設同様米海軍に接収され現在に至る(詳細は上記項目参照)。

■小泉 由兵衛(生没年不明)は、日本のとび職人、請負師。神奈川県平民。

元逓信大臣小泉又次郎の父。元首相小泉純一郎の曾祖父。衆議院議員小泉進次郎・タレント小泉孝太郎の高祖父。

経歴

武蔵国久良岐郡六浦荘村(現在の神奈川県横浜市金沢区)の代々のとび職だったが、のちに横須賀に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の請負師になった。

明治17年(1884年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、日清戦争(1894~1895年)から日露戦争(1904~1905年)にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていった。

当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と鳶の小泉組であった。

この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく。

そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨(きすう)を決定的にし、小泉組は軍港のやくざとして一大組織を築くことになった。

又次郎は家業を嫌って家出をした。由兵衛は連戻された又次郎を怒鳴りつけて、「此(こ)の寧馨児(ねいけいじ)、よくも出奔(しゅっぽん)する。お前は長男だから何としても家を相続せねばならないのだ。今日限り魂を入れ替えて家業を継げ!」と厳命した。

明治20年(1887年)、又次郎は立憲改進党に入党した。由兵衛は「こうなっては仕方がないが、とうとう倅(せがれ)一人を台無しにした」と嘆(なげ)いたという。当時の又次郎は特に立憲改進党へのこだわりはなくシンパというわけでもなかった。たまたま由兵衛と親しかった戸井嘉作の誘いを受けての入党だった。

小泉家

(神奈川県久良岐郡六浦荘村(現横浜市金沢区)、横須賀市)

* 妻・徳(神奈川県平民、岡崎文五郎二女)
* 息子

又次郎(神奈川県平民、とび職人、小学校助教員、新聞記者、政治家)

金三


岩吉(神奈川県多額納税者、土木建築請負業) - 小泉組を継いだ。

兄・又次郎同様、背中にみごとな入れ墨を入れた岩吉は、又次郎の度重なる無心にもいやな顔ひとつ見せず、必要な金を必ず用立てたという。


(Wikipediaここまで)

ね、ちゃんと書かれていますよね?

次は住吉会について、これは名無し先生からの補足(ヒント)無しでは語れません。

名無し先生のヒント

「敗戦国である日本で、好き勝手をしていた、戦勝国側である、中国、韓国、台湾の在日不良達を、弱小であった日本警察の代わりに要請を受けて、治安維持、掃討、逮捕までを行った銀座警察=住吉会住吉一家大日本興業。」

これらのヒントを元に浮かび上がって来たのが、日本青年社です。


徹底的に反共主義です。


(Wikipediaより)


日本青年社(にほんせいねんしゃ)は、指定暴力団住吉会傘下の右翼団体。住吉会住吉一家小林会を母体とする。最高顧問は住吉会総裁・西口茂男。現在でも複数の議員を地方議会に送り続ける力量を持ち、単一団体としては日本最大規模。東京都港区六本木に総本部を置いている。

綱領

* 我々は高貴なる日本の国体と歴史に基づき政治と文教を粛正し国権と領土を回復して平成維新を実現し万世の為に大平を開く道義国家を建設する。


* 我々は祖国を愛する同胞の情熱と団結を以て内外の不正と戦い占領憲法とポツダム体制を打破し必ず国体を明徴にする。


* 我々は自らを厳しく戒め楠公精神を慕う若き日本人として勇敢にして礼儀正しく廉潔にして信義を重んじ己の任務に私心なく挺身する。

来歴

1961年(昭和36年)、右翼団体・楠皇道隊が発足。当初、日本最大の右翼団体であった全日本愛国者団体会議(全愛会議)内の、児玉誉士夫に忠実な実行部隊だった青年思想研究会(青思会)に加盟していた。その後、独立路線に転じ、1969年に日本青年社へ改称。日本最大規模の組織力をもって、各地の地方議会に議員を送った。

1978年には尖閣諸島魚釣島に灯台を建立。以後27年にわたる保守点検と実効支配に取り組み、2005年2月に政府の申し出を受け、国に無償委譲するに至った。

愛知県西尾市三ヶ根山頂上にある殉国七士廟の奉賛活動を行うなどもしている。

■住吉会(すみよしかい)は、東京都港区赤坂に本拠を置く博徒系指定暴力団。米政府より薬物や武器の密輸、人身売買等の犯罪に関与する国際犯罪組織と認定されている。

勢力範囲は1都1道1府16県、構成員は5,900人であり準構成員を含めると約12,800人。(2012年2月時点)

住吉一家を中心とする、歴代の住吉一家総長を重んじる組織である。

会内で住吉一家の傘下でない組織は幸平一家のみとなっている。

明治初期、初代“伊藤松五郎”が東京芝浦一帯で博徒「住吉一家」を結成したのがその前身としている。

組名は“伊藤松五郎”が東京日本橋"住吉町"出身であることからつけられた。

その後、横浜の沖仲仕であった阿部重作が1918年(大正7年)頃に東京都内を本拠地として『住吉一家二代目』を結成。

これを直接の起源とする。

以後、『港会』、『住吉会』、『住吉連合』、『住吉連合会』と順次改称、1991年(平成3年)をもって再び『住吉会』へと名を変え、西口茂男を首領に据えた。

「住吉一家」の唱える系譜では住吉町の爺さんと呼ばれた伊藤松五郎が初代となっている(異説あり)。

二代目を中里一家の出身で「今大前田」と呼ばれた倉持直吉(本名は荏田村秀)が継承。住吉一家の客分で、洲崎の武部申策をオヤジと呼んだ芝浦の高木康太の代貸であった阿部重作が1948年に三代目を継承した。

1962年、上萬一家貸元であった磧上義光が四代目を継承。

1967年、中里一家四代目・堀 政夫が五代目を継承。

堀は1982年、住吉連合代表住吉一家五代目総長から「住吉連合会」に改編して会長に就任。

1988年には同会総裁に昇格するが、1990年10月に病死した。

1991年2月、住吉一家向後二代目・西口茂男が六代目を継承し、住吉連合会を「住吉会」に改称して会長に就任。

1998年6月、西口が住吉会総裁に昇格。2005年4月17日、住吉会会長・福田晴瞭が七代目を継承。

(Wikipediaここまで)

ある意味、日本を守ろうとして活動している印象が強いのですが、裏ではやはり、警察権力との闇取り引き、敵であるはずの中・韓・台の不良どもとのドロドロの関係があり、パチンコ利権も絡み、すっかり飲み込まれ、本来の意味を無くしてしまったのが銀座警察です。

最後に山口組と四日市コンビナート

781px-Yamabishi.png


山口組(やまぐちぐみ[3])は、兵庫県神戸市に本部を置く暴力団で、日本最大規模の指定暴力団。 その構成員数は2010年の時点で約20,300人、準構成員数は約16,100人の合計約36,400人であり、その人数は全暴力団構成員・準構成員数約85,200人のうちの46.3%を占めている。[2]

組員は同年の時点で1名の組長(親分)、7名の舎弟(弟分)、79名の若中(子分)から成る計87人。組長を除き、これら86名の舎弟と若中は直参(直系組長)と呼ばれ、それぞれが数十人から数千人の構成員を抱える組織の首領となっている。

“山口”の二文字を菱形の意匠とした“山菱”(やまびし[4])と呼ばれる代紋を用い、広島県と沖縄県を除く45の都道府県に系列組織を置いている。

(中略)

山口組若中・組織委員 菱田達之 二代目愛桜会 三重県四日市市

Wikipediaには書かれていませんが、この話のポイントは、四日市が福井藩の所有地だったという事。

福井藩第14代藩主 松平春嶽の頃です。

この山菱=山口組が四日市のコンビナートを仕切ったということです。

これはさすがにWikipediaでは出ませんね。

富山藩が加賀藩の支藩であることが書かれたWikipediaの文章を下記に貼付けます。

越中:戦国末期には両国の前田利長と佐々成政が争った。その後羽柴秀吉により、越中は前田利長に与えられ、江戸時代の越中は加賀藩とその支藩である富山藩に統治されていた。

唐突ですが、東京タワーのオーナーは誰だったか?

東京タワーのオーナーは前田家です。

東京タワーの建主であり、管理ならびに運営は日本電波塔株式会社(にっぽんでんぱとう)が行っている。

1957年5月、「大阪の新聞王」と呼ばれ当時は産業経済新聞社、関西テレビ放送、大阪放送(ラジオ大阪)各社の社長を務めていた前田久吉により設立。久吉はタワーの完成とほぼ同時の1958年、産経新聞社を国策パルプ工業(現・日本製紙)社長水野成夫に譲渡してその経営から手を引いたが、東京タワーとラジオ大阪の経営には引き続き携わった。この結果、日本電波塔は当時の産経新聞グループはもちろん、その後のフジサンケイグループからも完全に切り離されて前田家主導の同族企業となった。なおラジオ大阪も2005年にフジサンケイグループ入りするまで、前田家主導で独自の経営をしていた。

前田家は、安土桃山時代のキリシタン武将で有名な前田氏の加賀藩での家柄。

加賀前田家、美濃前田家、 尾張前田家 (与十郎家)、 尾張荒子前田家とあり、系譜として、尾張荒子前田家、加賀藩本家、富山藩、大聖寺藩、大聖寺新田藩、七日市藩とある。

Wikipediaのキリシタン大名・キリシタン武将、ま行にも載っています。

* 前田秀以(パウロ) - 前田玄以の長男。
* 前田茂勝(コンスタンチノ) - 前田玄以の次男。

隠れキリシタン=イエズス会の後押しがあった。というのも当時、ザビエルがイエズス会から派遣されたという史実から、説明する必要は有りません。

後押しとは、軍艦や武器の輸入に関わっていたということ。

以前の記事に書きましたが、ジャーディン・マセソン商会横浜支店に養子に行った子が吉田茂です。彼の養子先は福井藩。

1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。

ジャーディン・マセソン商会は小火器、ヴィッカ―ズは軍艦担当の武器商社コンビ。

‎ビッカーズ・アームストロング社は英国のロスチャ、ヘッセン系の軍艦製造業の会社です。

日本の軍艦「金剛」は、ビッカーズから三井物産を仲介として、福井藩が日本政府に売り付ける為、仕入れた。

そして、前田家という北陸は加賀藩の田舎大名が東京タワーのオーナーになる程の力を持っている。

加賀藩、福井藩、富山藩、共にイエズス会の後押しで軍艦や武器の輸入を商売にしていた。

福井藩と加賀藩の支藩である富山藩。

本家は加賀藩。

吉田家は大久保利通の親戚筋です。

大久保利通の息子、牧野伸顕の長女・吉田雪子が元総理大臣吉田茂の妻です。

あまり知られていませんが、別々に考えがちな薩摩藩と福井藩ですが、婚姻関係で、繋がっているのです。

しつこいですが、ジャーディン・マセソン商会横浜支店に養子に行った子が吉田茂。

イエズス会が常に背後にいる。

GPSの無い時代、日本には東京タワー(333メートル)より高い電波塔として他に、対馬にオメガタワー(455メートル)、小笠原南鳥島にロランタワー(411メートル)というものがありました。

これら2つの塔は軍事目的の電波塔だということは説明の必要は無いと思います。

その証拠に、GPSの普及に合わせて2塔とも、取り壊されています。

では、東京タワーはどうだったのでしょうか?

当然ですが、記述の2つの塔同様、東京タワーも軍事目的で立てられたのです。

朝鮮戦争の時、ちょうど間に山があって電波が飛ばなかったから。

朝鮮戦争が終わった後も、米軍艦は富山湾に監視の為、駐留しました。
前田が東京タワーのオーナー。

徳川幕府が終わる時の数々の戦争に、武器供給をした商社は前田を挟んだ福井、富山。

朝鮮戦争に米軍が行く時も富山湾から出る。

富山湾の米軍艦と横須賀基地の通信をする為に東京タワーを建てた。

日本で最初の頃の石油コンビナート基地である四日市は福井藩の飛び地(所有地)

これが事実ですから、ちゃんと計画があって物事は進むんです。

燃料補給もちゃんと考えて。

それでは。


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