【ウィキで調べる暴力団(笑)② 児玉誉士夫とマッカーサー】
- 2013/10/05
- 22:46
こんにちは、今回は【ウィキで調べる暴力団】の第2弾として、児玉誉士夫から書きます。
私はロッキード事件当時、まだ小学生でしたが、児玉誉士夫のことはよく覚えています。
お爺ちゃんだった印象しか有りませんが、とんでもないワルだったというのがWikipediaだけでも分かります。
今回はWikipediaの文章を丸々貼付けると長文になってしまいますので、抜粋で書かせていただきます。
児玉 誉士夫は、日本の右翼運動家。CIAエージェントであったとも言われる。暴力団・錦政会(後の稲川会。会長は稲川裕芳で、後の稲川聖城)顧問[4]。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。
この男、ネタの宝庫です。
下記は、この記事を書く上で最低限必要な事項を挙げた物ですので、これ以外にも無数の事例があります。
最初社会主義に傾倒したが、その後超国家主義に転じ、玄洋社の頭山満に私淑した。
1937年、外務省情報部長河相達夫の知遇を得て、中国各地を視察[7]。1938年、海軍の嘱託となり、1941年から上海で児玉機関を運営し、それをきっかけに黒幕へのし上がっていく。
1961年、この全愛会議内に児玉に忠実な活動グループ青年思想研究会(青思研)が誕生した。日乃丸青年隊の高橋正義を議長とし、下部組織には住吉会系の元組長や東声会の町井久之が代表を務める組織があった。
1967年7月、後に統一教会系の反共団体・国際勝共連合の設立につながる、「第一回アジア反共連盟(世界反共連盟の地域団体)結成準備会」が笹川良一の肝煎りで、山梨県本栖湖畔にある全日本モーターボート競走連合会の施設で開催された。この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。
1969年、青思研より独立した右翼団体日本青年社(前身は楠皇道隊)が結成。
これはヤクザと見分けが付かない任侠右翼の始まりであった。
まず、児玉の師匠であった、玄洋社の頭山満ですが、アジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥です。
玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、大杉栄などのアナキストとも交友があった。また、鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。
条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。
このような人物です。
さらに出口王仁三郎との関係も深く、王仁三郎はアジアでの活動を重視して中国の軍閥や日本の右翼頭山満や内田良平と関係を結び、北京に「世界宗教連合会」を設立した。
これらアジア主義者とは、東アジアにおける日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援する思想に発展し、やがて日本を盟主としたアジアの新秩序構築(アジア・モンロー主義あるいは大アジア主義)、そして昭和研究会による「東亜協同体論」としての政策化、「大東亜共栄圏」構想へとつながっていく。1945年の日本の敗戦によって、近代アジア主義は終焉したとされる。
その後の国際的な地域統合の流れの中で生まれた「東アジア共同体」構想も、しばしば戦前・戦中アジア主義と関連付けて言及されることがある。
というふうにWikipediaには書かれていますが、実際のところは???
さらに、この記事で重要な登場人物を紹介します。
第三国人です。
この三国人は、今でも日本の問題児です。
弱者を装った、特権階級です。
「第三国人」という言葉が、一般の書籍や新聞等で多く使われたのは主に戦後の混乱期であり、朝鮮人をはじめとする「旧日本人」は、「降伏後における米国の初期対日方針」では解放国民とされた[7]。
1945年11月から1946年11月までは「難民」としてGHQによる帰還事業の対象とされた[8]。1946年11月からは「日本国籍」と看做されながら[8]、1947年5月2日からは外国人登録令により外国人として扱われた。また1946年2月から日本の司法権が適用される[8]など朝鮮系の人々は占領政策の転換のはざまで翻弄されつつ、多くの騒乱・衝突を引き起こし(代表的な例として、直江津駅リンチ殺人事件など)、民族教育を巡る対立も加わり[8]、「闇市」や「騒擾」をする「第三国人」と伝えられることが多くなった。
終戦後の在日朝鮮人について
「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)にて、当時の総理大臣である吉田茂は戦後の在日朝鮮人に対して以下の見解を出している[13]。
* 彼らは 総数100万にちかく、その半数は不法入国。
* すべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待する。
その理由は次の通り。
* 現在および将来の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能。
* 大多数の朝鮮人は、日本経済の復興に全く貢献していない。
* さらに悪いことには、朝鮮人の中で 犯罪分子が大きな割合を占めている。
* 彼らは日本の経済法令の常習的違反者 であります。多くは共産主義者ならびにそのシンパで最も悪辣な政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態である。
一言で言うと、一応、戦勝国ということで朝鮮、中国、台湾から来て、日本社会に紛れ込んだ不良、犯罪者、鬼畜を第三国人といいます。
本当に残忍で無秩序な存在だったのです。いや、なのです。
これらを排除すべく、治安維持を任されたのが、当時、弱小であった警察ではなく、ヤクザだった。
戦後の混乱で無秩序化した日本で、暴力で好き放題をやっていた三国人たちから、日本の秩序を維持するには、ハムラビ法典では有りませんが、暴力で立ち向かう必要が有った。
三国人の暴力から日本人を守ったのは警察官ではなくヤクザだった。
三国人の悪行の詳細を知りたい方はこのリンクを読んでください。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2463/sangokuzin.htm
それが、東映の任侠シリーズにみられる、現実の描写だといえます。
ヤクザ映画は意外と事実に基づいています。
笠原 和夫 (かさはら かずお) は、東京都出身の脚本家。
代表作に『日本侠客伝シリーズ』、『博奕打ち 総長賭博』、『日本暗殺秘録』、『仁義なき戦い』シリーズ、『県警対組織暴力』、『二百三高地』、『大日本帝国』、『226』、『浪人街』など。著書に『映画はやくざなり』『破滅の美学』など。
緻密で且つ徹底的な取材に基づき執筆された数々の作品は日本の映画史を語る上でどれも重要な地位を占めている。
新作映画の企画のため、飯干晃一を訪ねた笠原はあるヤクザの手記を見せられ、飯干から映画化を進められた。笠原は早速その筆者である元組長・美能幸三を訪ねたが、美能は「映画化を望んで手記を書いたわけではない」と映画化を拒否。笠原はこの企画を諦めたが、たまたま美能と笠原が海軍の大竹海兵団の一期違いである事が分かり、親しみをもった美能は「絶対に映画化しない」という条件で広島抗争の裏話を次々と披露した。笠原は早速帰京して脚本を執筆、翌年に早々と公開された。これが『仁義なき戦い』である。
深作は完成度の高い笠原作品を敬愛し、『県警対組織暴力』においては「脚本が完璧すぎて映画化できない」と弱音を吐いたという。
敗戦で日本はアメリカに支配されたと思いがちですが、この三国人時代が開花したと考えた方良いと思います。
国を支配するには同じ顔をした少数民族、被差別集団を利用し、乗っ取って行く。
これがヘッセン、ユダヤのやり方でしたね?
GHQも手を焼いていたいう三国人ですが、実のところ、三国人を利用していたのがマッカーサーだったという、信じられない事実があります。
キャノン機関
キャノン機関(キャノンきかん、the Canon Unit)とはGHQによる占領中の日本にあったGHQ参謀第2部(G2)直轄の秘密諜報機関。
本郷の旧岩崎邸に本部を構えたキャノンは26人のメンバーを組織した。その他にも多数の工作員を抱え、柿の木坂機関、矢板機関、日高機関などの日本人工作員組織を傘下においていた。
1949年の国鉄三大ミステリー事件(下山事件・三鷹事件・松川事件)への関与も疑われるようになった。
日本人工作員の採用は、元軍人などを戦犯免除と引き換えに協力者にした例もあったと言われる。
Wikipediaには書かれていませんが、マッカーサー側が日本国の内部構造を仕切る為に使っていたのがキャノン機関です。
マッカーサーが偉大な人物であったというのはマッカなウソ。
ギャンブル、売春、窃盗、恐喝といった犯罪を取り仕切るチンピラ同様のカス野郎だったというのが名無し先生の活動する世界での評価です。
その下部組織が児玉機関です。
児玉機関
1938年に日中戦争が始まった。翌1939年、外務省情報部の懇意の笹川良一の紹介で採用され、海軍航空本部の嘱託となった。1941年真珠湾攻撃の直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川良一が山縣正郷少将に紹介、その後任者が大西瀧治郎少将(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる。(大西中将が自決に使った刀は児玉が贈った物といわれる。)それにより上海に「児玉機関」と呼ばれる店を出した。これは、タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた。当初、現地で商事会社東光公司を経営していた水田光義の水田機関を通じて物資を調達していたが、水田機関のピンハネが余りにひどいことに気づき、これを排除。1943年、水田が暗殺される。これは児玉機関の仕業とされる。
この商社のような仕事はすでに三井、三菱などの大企業が入っていたが即決主義で集めたため現地では重宝された。よく、児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど1億7500万ドル相当の資金を有するにいたったと言われている。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン鉱山を管轄下におさめ、農場や養魚場、秘密兵器工場も運営。ヘロインの取引の仲介もやっていたという。
この類の「○○機関」は当時大陸において非常に多く、前述の表の仕事と比して裏の仕事として中国側へのスパイ活動、抗日スパイの検挙や殲滅等を請け負っていた。一説には児玉が大陸で獲得したとされる膨大な資金はこれらの非合法な取締り(直接的には強盗殺害)によるものとされている。
児玉の行動について憲兵の監視はあったが、大西瀧治郎のような大物が庇護しているため逮捕してもすぐに釈放されるという結果となった。この間、1942年4月30日に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)に5人当選区の東京5区から立候補をして8位落選をしている。
「逆コース」
終戦後、児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げた。この海軍の秘密資金を米内光政海相の了承を得て掌中にしていた。講和内閣の首班として東久邇宮稔彦王が組閣した時には東久邇宮自身は児玉を知らなかったが内閣参与となっていた。1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨拘置所に送られた。その間、アメリカは民主化のために右翼を処刑・追放する方針を180度変え、アメリカに協力的な戦犯は反共のために生かして利用する「逆コース」と言われる政治的変換を行った。
「1948年末、釈放された児玉は中央情報局(CIA)に協力するようになった」と後にアメリカでも報道された。2007年3月12日にアメリカの公文書館保管のCIA対日工作機密文書が機密解除されて公開されたが、それによると、児玉のことを「プロのうそつきで悪党、ペテン師、大どろぼうである。情報工作できるような能力は全くなく金儲け以外に関心がない」と評している。
「フィクサー」へ
第二次世界大戦の終結後に上海から持ち帰った資金(現在の時価にして3750億円)を海軍に返還しようとしたというが、この資金は、調べられれば、汚れた金であることがわかってしまう。それで、戦時犯罪の疑いをかけられたくなかった海軍は、児玉に処分を依頼。旧海軍の資産のためアメリカも没収せずに、宙に浮いた。児玉は、巣鴨拘置所に共にいた右翼でヤクザの親分でもある辻嘉六に勧められて、この資金の一部を鳩山ブランドの日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。
1950年、北炭夕張炭鉱の労組弾圧のため明楽組を組織して送り込んだ。G2(アメリカ諜報担当・参謀第2部)と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を築き、十数年後には児玉は来たるべき闘争に備えて右翼の結集を目論んだ。暴力団との仲介には児玉機関にいた村岡健次が大きな役割を果たすことになる。
1954年には、河野を総理大臣にする画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自由民主党になった後も緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー(黒幕)として君臨した。岸信介が首相になる際にもその力を行使した。
日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約をすることになる。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。
1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家や、力道山といった大スターが児玉のための葬儀に集まり、焼香した。
このようにして、児玉はマッカーサーの手下となり、戦後日本のフィクサーとなったのです。
戦後日本の復興を目的として歳入された資金はマッカーサーのキャノン機関、その下部組織である児玉機関へと渡り、民間には高利貸しとして普及していきました。
その借金のカタに娘を取られ売春婦になる、受け皿としてのトルコ風呂(ソープランド)のライセンスは、児玉が仕切っていたという構図が出来てきます。
当然認可は警視庁から出ますが、戦後すぐはGHQからで、その流れを組む勢力は、現在も警察庁、警視庁に存在すると云う事です。
警察が表に出られぬ部分を暴力団の各組がカバーし、所轄単位でもたれ合いを産む慣習が作られました。
当然これら組み関係を作って来た流れが黒竜会などから来ています。
おかしな話じゃ有りませんか?売春行為同然のソープランドが合法ですからね。
パチンコだって立派なギャンブルです。
パチンコ業界は在日が仕切っていて、その利益から北朝鮮への資金が調達されているのは有名な話です。
昭和は良かったという人がいますが、こうした暗黒の事実まで知った上で、昭和は良かったと言っているのでしょうか?
皆がそこまで分かって言っていない事は明らかで、知らぬが仏とは、正にこの事でしょう。
このように、日本はとんでもない犯罪の合法化が行われ、現在でも、犯罪放置国家なのです。
また、復興資金は民主主義を推し進める目的で歳入されましたが、この資金を一部の派閥だけの為に我田引水してきたのが昭和の歴史でもあります。
例えば、以前、日清製粉の記事でも書きましたが、東武鉄道は根津側=美智子妃殿下の正田家の為に敷かれたといっても過言ではありませんね。
これは日本に構築された”裏社会主義”を象徴しています。
一方、東急と西部の路線計画は主に一般庶民の住宅地(通勤圏)を拡大する施策として進んできた訳で、根津側の社会主義特権階級の為の独占物流線を確保したのとは目的を異にし、民主主義発展に貢献してます。
これは裏社会主義独占システム構築インフラと民主主義発展インフラの対決といえます。
両方の要素を持ち、内部に派閥を持っていたのが国鉄です。
1949年の国鉄三大ミステリー事件(下山事件・三鷹事件・松川事件)に関与したキャノン機関。
戦後日本のインフラが出来る時に、民主主義目的を立て前にしない限り、資金は歳入されなかったのです。
なので、建前だけ民主主義にして、特権階級の為の裏社会主義インフラ作りに悪用した連中がいたと言う事です。
それが天皇を担ぐカラスの方々という、日本国籍を持たない人達なのです。
それと、マッカーサーについて纏めます。
マッカーサー家は、アメリカ本国で大統領候補選に出たがっていたが出れず、フィリピン支配に精を出した一族。
太平洋戦争でフィリピン・マッカーサー帝国を犯した日本を目の敵にしていた。
学校で教わるマッカーサーの美談は真っ赤な嘘。
マッカーサーのキャノン機関の下部組織が児玉機関。
軍部の物資泥棒、トルコ風呂のライセンス等を有し、高利貸し、麻薬、売春等おきまりの小悪党。
米国内モンロー主義(欧州とは一線を画すべき)と反する動き。
基本的に、南部出身のマッカーサーは奴隷維持、麻薬栽培、親東インド会社。
ということです。
おまけです
児玉はインドネシアへの政府開発援助では東日貿易秘書としてスカルノ大統領の夜の相手に選ばれたクラブホステス根元七保子(源氏名はデビ、後の通称デヴィ夫人)を送り込んで荒稼ぎをしている。
まあ、デビーなど、どうでもいいのですが、一般方は何か勘違いしているようなので、とりあえず。
それでは。
私はロッキード事件当時、まだ小学生でしたが、児玉誉士夫のことはよく覚えています。
お爺ちゃんだった印象しか有りませんが、とんでもないワルだったというのがWikipediaだけでも分かります。
今回はWikipediaの文章を丸々貼付けると長文になってしまいますので、抜粋で書かせていただきます。
児玉 誉士夫は、日本の右翼運動家。CIAエージェントであったとも言われる。暴力団・錦政会(後の稲川会。会長は稲川裕芳で、後の稲川聖城)顧問[4]。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。
この男、ネタの宝庫です。
下記は、この記事を書く上で最低限必要な事項を挙げた物ですので、これ以外にも無数の事例があります。
最初社会主義に傾倒したが、その後超国家主義に転じ、玄洋社の頭山満に私淑した。
1937年、外務省情報部長河相達夫の知遇を得て、中国各地を視察[7]。1938年、海軍の嘱託となり、1941年から上海で児玉機関を運営し、それをきっかけに黒幕へのし上がっていく。
1961年、この全愛会議内に児玉に忠実な活動グループ青年思想研究会(青思研)が誕生した。日乃丸青年隊の高橋正義を議長とし、下部組織には住吉会系の元組長や東声会の町井久之が代表を務める組織があった。
1967年7月、後に統一教会系の反共団体・国際勝共連合の設立につながる、「第一回アジア反共連盟(世界反共連盟の地域団体)結成準備会」が笹川良一の肝煎りで、山梨県本栖湖畔にある全日本モーターボート競走連合会の施設で開催された。この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。
1969年、青思研より独立した右翼団体日本青年社(前身は楠皇道隊)が結成。
これはヤクザと見分けが付かない任侠右翼の始まりであった。
まず、児玉の師匠であった、玄洋社の頭山満ですが、アジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥です。
玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、大杉栄などのアナキストとも交友があった。また、鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。
条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。
このような人物です。
さらに出口王仁三郎との関係も深く、王仁三郎はアジアでの活動を重視して中国の軍閥や日本の右翼頭山満や内田良平と関係を結び、北京に「世界宗教連合会」を設立した。
これらアジア主義者とは、東アジアにおける日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援する思想に発展し、やがて日本を盟主としたアジアの新秩序構築(アジア・モンロー主義あるいは大アジア主義)、そして昭和研究会による「東亜協同体論」としての政策化、「大東亜共栄圏」構想へとつながっていく。1945年の日本の敗戦によって、近代アジア主義は終焉したとされる。
その後の国際的な地域統合の流れの中で生まれた「東アジア共同体」構想も、しばしば戦前・戦中アジア主義と関連付けて言及されることがある。
というふうにWikipediaには書かれていますが、実際のところは???
さらに、この記事で重要な登場人物を紹介します。
第三国人です。
この三国人は、今でも日本の問題児です。
弱者を装った、特権階級です。
「第三国人」という言葉が、一般の書籍や新聞等で多く使われたのは主に戦後の混乱期であり、朝鮮人をはじめとする「旧日本人」は、「降伏後における米国の初期対日方針」では解放国民とされた[7]。
1945年11月から1946年11月までは「難民」としてGHQによる帰還事業の対象とされた[8]。1946年11月からは「日本国籍」と看做されながら[8]、1947年5月2日からは外国人登録令により外国人として扱われた。また1946年2月から日本の司法権が適用される[8]など朝鮮系の人々は占領政策の転換のはざまで翻弄されつつ、多くの騒乱・衝突を引き起こし(代表的な例として、直江津駅リンチ殺人事件など)、民族教育を巡る対立も加わり[8]、「闇市」や「騒擾」をする「第三国人」と伝えられることが多くなった。
終戦後の在日朝鮮人について
「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)にて、当時の総理大臣である吉田茂は戦後の在日朝鮮人に対して以下の見解を出している[13]。
* 彼らは 総数100万にちかく、その半数は不法入国。
* すべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待する。
その理由は次の通り。
* 現在および将来の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能。
* 大多数の朝鮮人は、日本経済の復興に全く貢献していない。
* さらに悪いことには、朝鮮人の中で 犯罪分子が大きな割合を占めている。
* 彼らは日本の経済法令の常習的違反者 であります。多くは共産主義者ならびにそのシンパで最も悪辣な政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態である。
一言で言うと、一応、戦勝国ということで朝鮮、中国、台湾から来て、日本社会に紛れ込んだ不良、犯罪者、鬼畜を第三国人といいます。
本当に残忍で無秩序な存在だったのです。いや、なのです。
これらを排除すべく、治安維持を任されたのが、当時、弱小であった警察ではなく、ヤクザだった。
戦後の混乱で無秩序化した日本で、暴力で好き放題をやっていた三国人たちから、日本の秩序を維持するには、ハムラビ法典では有りませんが、暴力で立ち向かう必要が有った。
三国人の暴力から日本人を守ったのは警察官ではなくヤクザだった。
三国人の悪行の詳細を知りたい方はこのリンクを読んでください。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2463/sangokuzin.htm
それが、東映の任侠シリーズにみられる、現実の描写だといえます。
ヤクザ映画は意外と事実に基づいています。
笠原 和夫 (かさはら かずお) は、東京都出身の脚本家。
代表作に『日本侠客伝シリーズ』、『博奕打ち 総長賭博』、『日本暗殺秘録』、『仁義なき戦い』シリーズ、『県警対組織暴力』、『二百三高地』、『大日本帝国』、『226』、『浪人街』など。著書に『映画はやくざなり』『破滅の美学』など。
緻密で且つ徹底的な取材に基づき執筆された数々の作品は日本の映画史を語る上でどれも重要な地位を占めている。
新作映画の企画のため、飯干晃一を訪ねた笠原はあるヤクザの手記を見せられ、飯干から映画化を進められた。笠原は早速その筆者である元組長・美能幸三を訪ねたが、美能は「映画化を望んで手記を書いたわけではない」と映画化を拒否。笠原はこの企画を諦めたが、たまたま美能と笠原が海軍の大竹海兵団の一期違いである事が分かり、親しみをもった美能は「絶対に映画化しない」という条件で広島抗争の裏話を次々と披露した。笠原は早速帰京して脚本を執筆、翌年に早々と公開された。これが『仁義なき戦い』である。
深作は完成度の高い笠原作品を敬愛し、『県警対組織暴力』においては「脚本が完璧すぎて映画化できない」と弱音を吐いたという。
敗戦で日本はアメリカに支配されたと思いがちですが、この三国人時代が開花したと考えた方良いと思います。
国を支配するには同じ顔をした少数民族、被差別集団を利用し、乗っ取って行く。
これがヘッセン、ユダヤのやり方でしたね?
GHQも手を焼いていたいう三国人ですが、実のところ、三国人を利用していたのがマッカーサーだったという、信じられない事実があります。
キャノン機関
キャノン機関(キャノンきかん、the Canon Unit)とはGHQによる占領中の日本にあったGHQ参謀第2部(G2)直轄の秘密諜報機関。
本郷の旧岩崎邸に本部を構えたキャノンは26人のメンバーを組織した。その他にも多数の工作員を抱え、柿の木坂機関、矢板機関、日高機関などの日本人工作員組織を傘下においていた。
1949年の国鉄三大ミステリー事件(下山事件・三鷹事件・松川事件)への関与も疑われるようになった。
日本人工作員の採用は、元軍人などを戦犯免除と引き換えに協力者にした例もあったと言われる。
Wikipediaには書かれていませんが、マッカーサー側が日本国の内部構造を仕切る為に使っていたのがキャノン機関です。
マッカーサーが偉大な人物であったというのはマッカなウソ。
ギャンブル、売春、窃盗、恐喝といった犯罪を取り仕切るチンピラ同様のカス野郎だったというのが名無し先生の活動する世界での評価です。
その下部組織が児玉機関です。
児玉機関
1938年に日中戦争が始まった。翌1939年、外務省情報部の懇意の笹川良一の紹介で採用され、海軍航空本部の嘱託となった。1941年真珠湾攻撃の直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川良一が山縣正郷少将に紹介、その後任者が大西瀧治郎少将(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる。(大西中将が自決に使った刀は児玉が贈った物といわれる。)それにより上海に「児玉機関」と呼ばれる店を出した。これは、タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた。当初、現地で商事会社東光公司を経営していた水田光義の水田機関を通じて物資を調達していたが、水田機関のピンハネが余りにひどいことに気づき、これを排除。1943年、水田が暗殺される。これは児玉機関の仕業とされる。
この商社のような仕事はすでに三井、三菱などの大企業が入っていたが即決主義で集めたため現地では重宝された。よく、児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど1億7500万ドル相当の資金を有するにいたったと言われている。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン鉱山を管轄下におさめ、農場や養魚場、秘密兵器工場も運営。ヘロインの取引の仲介もやっていたという。
この類の「○○機関」は当時大陸において非常に多く、前述の表の仕事と比して裏の仕事として中国側へのスパイ活動、抗日スパイの検挙や殲滅等を請け負っていた。一説には児玉が大陸で獲得したとされる膨大な資金はこれらの非合法な取締り(直接的には強盗殺害)によるものとされている。
児玉の行動について憲兵の監視はあったが、大西瀧治郎のような大物が庇護しているため逮捕してもすぐに釈放されるという結果となった。この間、1942年4月30日に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)に5人当選区の東京5区から立候補をして8位落選をしている。
「逆コース」
終戦後、児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げた。この海軍の秘密資金を米内光政海相の了承を得て掌中にしていた。講和内閣の首班として東久邇宮稔彦王が組閣した時には東久邇宮自身は児玉を知らなかったが内閣参与となっていた。1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨拘置所に送られた。その間、アメリカは民主化のために右翼を処刑・追放する方針を180度変え、アメリカに協力的な戦犯は反共のために生かして利用する「逆コース」と言われる政治的変換を行った。
「1948年末、釈放された児玉は中央情報局(CIA)に協力するようになった」と後にアメリカでも報道された。2007年3月12日にアメリカの公文書館保管のCIA対日工作機密文書が機密解除されて公開されたが、それによると、児玉のことを「プロのうそつきで悪党、ペテン師、大どろぼうである。情報工作できるような能力は全くなく金儲け以外に関心がない」と評している。
「フィクサー」へ
第二次世界大戦の終結後に上海から持ち帰った資金(現在の時価にして3750億円)を海軍に返還しようとしたというが、この資金は、調べられれば、汚れた金であることがわかってしまう。それで、戦時犯罪の疑いをかけられたくなかった海軍は、児玉に処分を依頼。旧海軍の資産のためアメリカも没収せずに、宙に浮いた。児玉は、巣鴨拘置所に共にいた右翼でヤクザの親分でもある辻嘉六に勧められて、この資金の一部を鳩山ブランドの日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。
1950年、北炭夕張炭鉱の労組弾圧のため明楽組を組織して送り込んだ。G2(アメリカ諜報担当・参謀第2部)と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を築き、十数年後には児玉は来たるべき闘争に備えて右翼の結集を目論んだ。暴力団との仲介には児玉機関にいた村岡健次が大きな役割を果たすことになる。
1954年には、河野を総理大臣にする画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自由民主党になった後も緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー(黒幕)として君臨した。岸信介が首相になる際にもその力を行使した。
日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約をすることになる。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。
1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家や、力道山といった大スターが児玉のための葬儀に集まり、焼香した。
このようにして、児玉はマッカーサーの手下となり、戦後日本のフィクサーとなったのです。
戦後日本の復興を目的として歳入された資金はマッカーサーのキャノン機関、その下部組織である児玉機関へと渡り、民間には高利貸しとして普及していきました。
その借金のカタに娘を取られ売春婦になる、受け皿としてのトルコ風呂(ソープランド)のライセンスは、児玉が仕切っていたという構図が出来てきます。
当然認可は警視庁から出ますが、戦後すぐはGHQからで、その流れを組む勢力は、現在も警察庁、警視庁に存在すると云う事です。
警察が表に出られぬ部分を暴力団の各組がカバーし、所轄単位でもたれ合いを産む慣習が作られました。
当然これら組み関係を作って来た流れが黒竜会などから来ています。
おかしな話じゃ有りませんか?売春行為同然のソープランドが合法ですからね。
パチンコだって立派なギャンブルです。
パチンコ業界は在日が仕切っていて、その利益から北朝鮮への資金が調達されているのは有名な話です。
昭和は良かったという人がいますが、こうした暗黒の事実まで知った上で、昭和は良かったと言っているのでしょうか?
皆がそこまで分かって言っていない事は明らかで、知らぬが仏とは、正にこの事でしょう。
このように、日本はとんでもない犯罪の合法化が行われ、現在でも、犯罪放置国家なのです。
また、復興資金は民主主義を推し進める目的で歳入されましたが、この資金を一部の派閥だけの為に我田引水してきたのが昭和の歴史でもあります。
例えば、以前、日清製粉の記事でも書きましたが、東武鉄道は根津側=美智子妃殿下の正田家の為に敷かれたといっても過言ではありませんね。
これは日本に構築された”裏社会主義”を象徴しています。
一方、東急と西部の路線計画は主に一般庶民の住宅地(通勤圏)を拡大する施策として進んできた訳で、根津側の社会主義特権階級の為の独占物流線を確保したのとは目的を異にし、民主主義発展に貢献してます。
これは裏社会主義独占システム構築インフラと民主主義発展インフラの対決といえます。
両方の要素を持ち、内部に派閥を持っていたのが国鉄です。
1949年の国鉄三大ミステリー事件(下山事件・三鷹事件・松川事件)に関与したキャノン機関。
戦後日本のインフラが出来る時に、民主主義目的を立て前にしない限り、資金は歳入されなかったのです。
なので、建前だけ民主主義にして、特権階級の為の裏社会主義インフラ作りに悪用した連中がいたと言う事です。
それが天皇を担ぐカラスの方々という、日本国籍を持たない人達なのです。
それと、マッカーサーについて纏めます。
マッカーサー家は、アメリカ本国で大統領候補選に出たがっていたが出れず、フィリピン支配に精を出した一族。
太平洋戦争でフィリピン・マッカーサー帝国を犯した日本を目の敵にしていた。
学校で教わるマッカーサーの美談は真っ赤な嘘。
マッカーサーのキャノン機関の下部組織が児玉機関。
軍部の物資泥棒、トルコ風呂のライセンス等を有し、高利貸し、麻薬、売春等おきまりの小悪党。
米国内モンロー主義(欧州とは一線を画すべき)と反する動き。
基本的に、南部出身のマッカーサーは奴隷維持、麻薬栽培、親東インド会社。
ということです。
おまけです
児玉はインドネシアへの政府開発援助では東日貿易秘書としてスカルノ大統領の夜の相手に選ばれたクラブホステス根元七保子(源氏名はデビ、後の通称デヴィ夫人)を送り込んで荒稼ぎをしている。
まあ、デビーなど、どうでもいいのですが、一般方は何か勘違いしているようなので、とりあえず。
それでは。
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